| 会津の防衛に不安を抱いた尚之助は、八重を連れだって周縁の地域の見聞に回る。二本松に立ち寄った二人は、そこで熱心に砲術教練に励む少年隊士達に出会う。二本松藩では変事に備え、藩士は皆鉄砲を学ぶようにとの通達が。会津に戻ると、尚之助に藩から仕官の認可が下り、八重も権八や佐久と喜び合う。尚之助は周縁地域の見聞録や軍備増強策を提出し藩からも評価される。しかし、藩には尚之助の献策を実現させる余力はなかった。 |
慶応3年、慶喜は徳川家の存亡を懸け大政奉還を決意。知らせは会津の八重たちにも伝わり、尚之助は藩から軍備増強策に乗り出すよう指示される。都では、息を吹き返した討幕派の藩士や浪士たちが会津藩や新撰組に嫌がらせを繰り返していた。覚馬の元にも討幕派の浪士が襲いかかり、視力を失いかけている覚馬は斬殺されそうになる。しかし、その危機を見ず知らずの女が救う。それは大垣屋が覚馬の視力を心配して送りこんだ下女だった。 |
都では王政復古が宣言され、逃げるように大坂へ下ろうとする慶喜を林権助や佐川官兵衛らが必死に引き留めるが、神保修理にいさめられあえなく追従することになる。都落ちを知った八重は、藩の女たちとともに戦勝祈願の幟旗を縫い、スペンサー銃の練習に明け暮れる。都に出兵するも慶喜討伐の口実を失った薩長は、西郷の発案で江戸に戦火を起こす。そして、慶応4年1月、ついに鳥羽伏見の戦いの火蓋が切られる。 |
鳥羽伏見の戦いで会津藩が苦戦を強いられる中、会津では八重が夫・修理の無事を祈る神保雪を励ましていた。しかし、戦況は好転せず初陣を飾ったばかりの弟・三郎が敵陣に倒れてしまう。敗色を察した慶喜は夜陰に乗じて容保を道連れに密かに大坂から出帆、藩士たちも後を追うように江戸へ敗走した。会津には徳川とともに朝敵の裁定がなされ、敗戦の責任は慶喜に江戸へ一旦戻ることを進言した修理が一人負うことになる。 |